いつからか分かりませんが「卒業」という言葉を、「学校を卒業する」という本来の使い方以外にもよく使われるのを見聞きするようになりました。個人的には言葉が時代によって変化することにどうこういうつもりはありませんが、それでも「卒業」の使われ方に疑問や不愉快に思うことがあります。
そもそも「卒業」というのは、
「そこでできることは「修了した」ので次に進む」というような意味かと思います。
ですから、会社を辞めたりするときに卒業という表現を用いているのをみると、個人的には「大丈夫?」と感じます。そんな視点からの記事です。
トレーニングの目標を達成したら卒業?
ある目標に達したら終わり。
「目標を達成したら終わり」というのはすごくシンプルで何の問題がないようにも思いますが、本当にそうでしょうか?
筋力、体重・・・のように数値などであらわされるものは、トレーニングを中止することで同じ状態で維持することはできないのを理解した上でしたらかまいませんが大丈夫なのでしょうか?
目標とする数値に達したら止めるのは自由ですが、そうしたこと(中止したら・・・)ということを理解しないままおこなっているのであれば残念ですね。
トレーニングの目的がなくなったので卒業?
例えば、スポーツ選手が引退したので頑張ってトレーニングをする必要がなくなったというような場合です。目的となっていた活動をやめたため、トレーニングをする理由がなくなったため止める。
目的がないのなら、トレーニングが辛いと感じていて目的のために無理をされていたのであれば中止されるのは当然と言えるかもしれません。ただ、この場合も卒業という言葉がふさわしいかというと疑問ですね。
課題を終わったら修了というようなものは学校だけでは
ある物事を過程に区切ってその過程を便宜的に修了したとする。学校というところはそのようなところだから卒業して次ぎの過程に進むための存在だと思います。スポーツ選手の場合は次の段階で要求されるレベルでおこなえる能力を認めてもらえなければ、選手としては続けられないということもあります。この場合は卒業というより、学校の中でいえば退学ですね。
でも、どんな仕事も趣味も、トレーニングに限らずそのおこないを高めていくのに、「ここまで」というのはないのではないでしょうか?どこまでその人にとってそれが大切なものかということだけですね。
もっとよくなりたいなら終わりはない
トレーニングの場合は、現状より何かをよくしたいと思っているから始めたのではないでしょうか。そのように考える気持ちがあるうちは、少なくとも卒業という言葉で表現をされるような終わりは必要ないのではないでしょうか?
卒業なんて言葉は簡単に使えないのでは?
自分自身がおこなっていることに価値があると考えていて、少しでもよくなりたいと思いつづけている人は、「卒業」なんて言葉は「使わない」のではないでしょうか?簡単に使える人にとってはその程度の価値なのかもしれませんね。
GlimSCにとって、トレーニングは「卒業」という言葉を使える存在ではありません。
1つだけ誤解がないようにしたいのは
パーソナルトレーニングを受けていただいている方が継続をされるかというのは別の話です。
GlimSCでは、そんなに簡単に卒業という表現であつかえるモノを提供していませんし、トレーニングを受けていただいてる方の向上に合わせて向上ができるモノを提供できるように努めたいと考えています。
まとめ
トレーニングに限らず、好きなことや大切だと思っていたことを続けなければいけないわけではありません。続くかどうかは自分の意志だけではなく環境もあってのことでしょう。ただそれでもいえるのは、止めたり、中断するのはその人の事情であって、卒業などといって区切るものではないと思います。卒業なんて線を引かずに、やりたくなったらまた再開すればいいのですから。
「卒業なんて簡単に言う人は、はなから入学もしてない」そう思います。